己をしっかりもった、芯のある挫けない子を育てたいと思いませんか?
そして、人や社会に貢献できる喜びを知っている子に育てたいと思いませんか?
今の自分に満足できない。自分を変えたい。自信と勇気と行動力を養いたいと思っている人に、
「護身練胆」「精神修養」「健康増進」の三つを備えた自己変革の道、少林寺拳法をお勧めしたいのです。
たくさんの親が抱える悩み
・子どもになかなか生き方を話せない。どう接すればよいのか、どう話せばよいのか難しい。
・目の前に正座させて、親の話をする機会がもてない。
・このまま難しい年頃になっていくと心配だ。
・子育ての目標はあるが、それをなかなか家では実践できない。
・腰骨の立った、芯のしっかりした子に育てたいのだが、どうすれば…。
・素直に「ありがとう」が言える子に育てたいのだが…。
・社会(家・地域)に貢献できる子に育てたい、そしてそれに喜びを感じられる子に育てたいのだが…。
・いじめる子にも、いじめられる子にも、見ているだけの子にもなってほしくないのだが…
保育園の頃から、知らないうちに比較競争の中で育ってきた子どもたちは、たくさん傷つくことになります。次第に傷つくことを恐れ、臆病になり、生活力さえも失ってしまう。相手に負けるとわかっていたら、最初から土俵に上がろうとしなくなりますね。利己的になり大切なのは自分だけとなっていきます。目の前の人が集まる場では、恐れからコミュニケーションが取れず、それぞれ砂粒のようにバラバラであり、見えないネットの中でのつながりが、かろうじて自分を支えているのが現状です。
人生において人との勝ち負けは避けて通ることはできません。ことさら教える必要はなく、そこに面白さもやりがいも確かにあります。しかし、勝ち続けられるのはほんのわずかです。勝ち負けのある世界では、負けることに対する恐怖心、負けたことに対する劣等感から逃れることが難しいのです。この感情が多くの子ども達の心を委縮させると思われませんか?恐怖心や劣等感から逃れるために全力を出そうとする子供ではなく、自らの課題に喜々として全エネルギーを注ぎ込める子に、教えて育てたいのです。
少林寺拳法には勝ち負けがありません。全くの護身の技術だからです。相手にケガをさせることもありません。技術そのものがそうなのです。勝たなくてもいい、「負けない強さ」を求めています。暴力にも、自分の人生にも負けない強さです。
修行の場である「道院」では、勝ち負けがありません。それぞれが人と比べることなく自分の向上を目指すことになります。そこに自ずとお互い相手を認め合いながら、教え合い、助け合う姿が現れます。お互いがお互いを上手にするための協力者になるのです。「半ばは我が身の幸せを、半ばは他人の幸せを」、開祖宗道臣の言葉です。
人間尊重の「技法」、半ばは他人の幸せを考えように代表される「調和の教え」、そのために張りめぐらされた「教育システム」、この中から、「自分には変わっていける能力がある」「人々は敵ではなく仲間だ」と感じられる人を、一人でも多く育てたいと願っているのが少林寺拳法の「道院」なのです。
「道院」は修行の場、お寺さんと同じです。ですから座禅も組みます。この修行は身体だけでなく、心からも、そして教えからも入ることになります。
開祖は少林寺拳法をどんな目的で作られたのか
問 開祖はどんな人間作りをしたいと思ったのか?
人間の値打ちはその人の行動できまる。その時どんな行動が取れるか。
- ごみが落ちているのを見た。
- 誰も何も言わないところで最初に発言する。
- 誰の前でも自分の考え、思いを言える。
- いいと思ったことはたとえ自分ひとりででもできる。
問 その行動を起こすためには何が必要か?
勇気が必要である。信念が必要である。
- ごみを拾う勇気
- たとえ一人ででも行う勇気
- たとえ一人ででも発言する勇気
「もっと勇気を出せ」「勇気を出せばいいんだ」とは良く聞く言葉である。
「出せ」と言って勇気が出せればこんな易しいことはない。
問 出したい勇気がなぜ出せないのか?どうなれば勇気が出せるか?
勇気の出せるもとは己に対する自信である。
この自信こそ人が生きていく上で一番大事なもの。人生を強く生き抜く自信。
死ぬまで負けたと思わない。九転十起ができる自信
問 この自信と信念を何によって身に付けるか?
信念を持ち、勇気をもって行動した人間が、力が無いばかりに無法者に虫けらのように殺されていった現実を開祖は何度も見てきた。
一人ではできなくても仲間が集まればできる。
「力の無い正義は無力である」
自分の身を守れるという自信→→強く生きる自信へつながる近道である。
少林寺拳法をこの自己改造と人との協力を目指す手段として。
少林寺拳法とは何か
問 「単なる武道やスポーツではない」とは、どこが違うのか?
スポーツ……ルールのある遊び、いい点もたくさんある。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」だが、最終目標は相手チームに勝つこと。相手は倒すべき敵であり、仲間はできるが同じチーム内である。
武道 ………人間完成を目標に置くが、その手段は強くなること、相手に勝つための練習を通して人間完成を目指す。
目の前の相手はスポーツと同じ倒さねばならない敵である。
この練習のあり方から人間完成がはかれるか?
「武」の本義は争いに勝つことではなく、「戈」を「止」めること。
争いを止めることが「武」である。
少林寺拳法…自己確立と自他共楽を目標に置く、人造りと国造りの手段。勝つことよりも負けない技術を身につけながら、勝ち負けのない修練を通して他者と協力していく喜びと強さを知る。
他者は敵ではなく、協力者である。
寄りどころとなる自己の確立とお互いが助け合える理想社会の実現を目指す!
宗門の行