自粛中だった稽古が再開しました。折角ですので、引き続き「母と子の開祖語録とその解説」をアップします。
卓上開祖語録カレンダー(第一集)より
28日の語録
体を鍛え、何かの時には無手で身が護れる、人を護ってあげられる。よその武道がどうであれ、われわれはそれで十分じゃないか。
覚えるよ。「体を鍛え…護れる」ハイ、後について言って。次は「人を…られる」初めからここまで言えるかやってみて。次だよ。「よその…じゃないか」もう一回言えるかやってみて。それじや最初の「体を鍛え」から試してみよう。ダメだったらできるまで挑戦だ。
少林寺拳法は選手をつくろうとはしていないよね。チャンピォンをつくるつまりもない。国体もオリンピックも関係ない。「地球の裏側からボタン一つで人類が滅ぶ時代に武術の先生なんていらんのだ」と開祖は言うのだ。相手に勝つことを目指すのが武道だと思われているけれども、負けなければいいと考える少林寺拳法は修行の目的が違うからなのだ。格闘の技術と護身の技術とでは、技術そのものも違うし、稽古のあり方も当然変わってくるのだね。何かの時に無手で身を護れるものさえ持っていれば、それで十分だって。「目打ちと金的蹴りさえ覚えていれば、役に立つんだぞ」とも言っていたよ。喧嘩に勝つためだけだったら、30年も40年もやり続けることなんてない。もしかしたら一生使わない技術かもしれないのだ。少林寺拳法は「喧嘩の手段」ではない、「人づくりの手段」だということを忘れてはいけないね。それじや、どういう人をつくろうとしているのか?さぁ、答えられるだろうか?
